砂美はいつでも上の空だった。我を忘れた、という形容がしっくりと当てはまるくらい、あてどもない顔つきをしている。一日中ぼんやりしていることもさして珍しいことではなかった。どれくらいぼんやりしているかというと、まるで顔に霧がかかっているような、目鼻がどこにあるのかもわからないくらい、ぼんやりしているのだ。
よって同僚達は顔がはっきりしない、誰だかよく分からない、という特徴の無さから彼女を認識するのだった。
いわば彼女は『特性のない女』だったのである。
しかし、そんなぼんやりさんも喫茶店『オイリー』のウェイトレスをしているときは、心ががらんどうのまま仕事をするわけにはいかなかった。
注文を聞いたり、美味しいコーヒーをドボドボ淹れたり、お釣りの勘定を間違えたりしなければ、何も心がすっからかんだろうが、頭がお留守だろうが、そんなことは関係ない。
とにかく砂美はずーっと上の空だったのである。
端から見て砂美は何も頭に入っていない、何かに心が突き動かされているようにも見えない風に思われているが、実は砂美は砂美で自分が自分であることに常日頃から深い疑問を抱いているのを自覚した上でこのような生活態度を取っているのだった。
その証拠に、時折砂美の中でとある発見が起きると、彼女は人目もはばからず白目を向くのだった。
同僚達がそうした砂美の異様な自己認識について考えが及ぶはずもなかったが、同僚からはあまりのぼんやりぶりに一目置かれていた。
ある日のこと、砂美は同僚の鉄子からこんなお誘いを受けた。
『ねー、砂っち。今度の日曜日に向かいの喫茶店の男の子たちと合コンやるんだけど、一人じゃ心細くって一緒に行ってもらえないかな』
『別にいいですけど』
『『いいですけど』ってどっち?OKってこと?それともNO?砂っちはぼんやりしてるからわかんないよ。だって全然表情が雲に隠れててわかんないんだもん』
砂美は一瞬嫌な顔をしたが、顔全体が霧に隠れているので鉄子には悟られることはなかった。すぐに上の空に戻るとこう言った。
『オウケイ』
日曜日になった。
女は鉄子と砂美、男も2人。なかなかの好男子である。
『じぁあ、あのー自己紹介から』
おずおずと鉄子は積極的な調子を装い切り出した。
『あたしは鉄子っていいます。鉄は製鉄の鉄です。こっちは顔はよく見えないけど、あたしの同僚。さ、砂っち、自己紹介』
砂美はその時までいつものように上の空だったが、自己紹介という言葉を聞いた瞬間、自分には何も紹介するものを持っていないことに気がつき、白目を向きそうになった。
そして今ここで白目を向いてはせっかくの合コンを台無しにしてしまうという砂美の良心が表れ、『自己』『自分』『私』という言葉を出さずに何かこの空気をやり過ごすことはできないかと思案した。
砂美が他人のためにここまで頭を働かせることは滅多になかった。
もとい自分のためでもあった。
しばらくの沈黙の後、砂美は声を震わせ自己紹介を始めた。
『えー、人生には三つの袋があります。お袋、胃袋、堪忍袋です。この3つの袋を大切に、自分の人生を、自分、じ・ぶ・ん…あわわわー』
バターン!
砂美はショックのあまり白目を向いて口から泡を吹き出し椅子ごと後ろにひっくりかえってしまった。
そして気がつくと店のソファーに寝かされていた。
それでも砂美は考えることをやめない。眠りから覚めた砂美はやはり、また自分という夢の中に突入する。
ぼんやりしているように見えるが、このぼんやりはもともと自分のものだからだ。
もしかしたら、いつかぼんやりしなくなるときが来るのかもしれない。
でもぼんやりしようがはっきりしようが砂美はその瞬間自分が生きていたことを感じる。
鉄子は目覚めた砂美にやさしく語りかける。
『さっきの男の子たち、砂っちのこと、面白いねって言ってたよ。『また合コンやろうね』だって』
『うう』
その日から、砂美の顔を覆っている霧は以前よりいっそう深くなり、さながら宇宙の深淵のように、日々を追うごとに凄みを増していった。
やがて頭部は無くなり、その代わりに真っ暗な雨雲がちょこんと首の上に乗っている。
最近、私が人づてに聞いた話によると、黒い霧の砂美に好きな人が出来たそうだ。
その恋が成就するしないはともかくとして、何はともあれ喜ばしいことである。
売れない度 99%
【人生の最新記事】


